003858

このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

Kumaoの掲示板





◆ 長崎原爆66年 投稿者:kumao  引用する 
家付きでんでん  66年前の今日のこの日は長崎に原爆が投下された日だ。
太平洋戦争を終結させた、広島原爆に次ぐ長崎原爆は、私にとっては思いでは無い。

 当時、満州の企業に勤務していた私にとっては、同日、北満州にソ連軍が侵入したニュースに目を奪われた。満州居住者にとっては当然のことだが。

 私の入寮していた青年塾という名の独身寮は、未成年者だけが入寮を許される独身寮で、寮生全員が召集令状待ちの青年だけの寮であった。他に、鍬を捨てて、この製鉄所に動員されていた満州開拓義勇軍の少年達も一緒だった。

 ここの寮生は、みんな、観閲点呼を受けて、第二国民兵役に編入され、召集令状待ちの寮生ばかりだった。

 翌日、過半数の寮生に召集令状が来た。夕食に集まった
寮生は、お前来たか」「俺にも来た」「いや来なかった」の会話ばかりだった。入隊は翌日。荷持つの整理に大わらわだった。故郷に、手紙書いただろうか、親御さんには、連絡取れただろうか。そんな慌ただしい、入隊だった。 翌日の入隊は、挨拶も無く、ただ、手を振って「頑張れ」と見送っただけ。敗戦になって、元気で、新しい毛布や煙草を貰ったとニコニコして帰って来た人、とうとう帰ってこなかった人に分かれた。悲しかった。
2011/08/09(Tue) 09:48:18 [ No.499 ]

◆ 林檎 投稿者:kumao  引用する 
家付きでんでん  長女から携帯で青森のメール友からの林檎の写真が転送されてきた。綺麗な林檎だ。林檎には忘れがたい思い出がある。戦前の戦争時代に国民は食糧難に言い尽くせない思い出をみんな持っている。

 北国の産物の林檎は、この九州では、もう何年も食べられなくなっていた。勤労動員されて1年間働いた海軍工廠では、期待していたが、とうとう期待はずれだった。

 私は、満州(現在の中国東北部)の会社に就職決定し、渡満するため北九州に在る会社の出張所に同社に入社する人達・5、6名が集まり、夜中の12時に出航する釜山港行き連絡船の出航の時間待ちしていた。一行には、秋田から男性2名と女性1名とその他が一緒だった。女性は会社付属病院の看護婦に就職するとのことだった。この時期に勇敢だなと感心した。

 その時秋田の同行者の男性から、皆さんに「林檎1個ずつ」戴いたのです。朝鮮海峡を無事に渡れるかどうかと思われる時機だったので、深いことも考えたりしながら戴いた。終生忘れえぬ林檎の味だった。1年2ヶ月を経て引揚げて帰ってきたら日本は「林檎の歌」が大流行していた。
2011/07/30(Sat) 14:37:37 [ No.498 ]

◆ 無題 投稿者:kumao  引用する 
家付きでんでん 昔(?)台風銀座と揶揄された私の住むここ宮崎県は、台風6号はたいした損害も与えずに東に飛び抜けていった。それにしても、テレビの台風情報は、ズレが気になる。
 私が直ぐ思い出すのは、戦前の昭和18年(1943年)の台風だ。私の住んだところは、半農半漁の町で、四つの大きな河川が一つになって海に流れ出る川口であった。
 時は、日本軍が、ガダルカナル島から撤退し、段々と劣勢になりつつあった頃だった。「板子1枚下は地獄」と言われていた、漁師は、気象には敏感で、長年の経験は、大したものだった。台風が近づくと、台風には危険な河川港から、安全なたの漁港に船を避難させていた。

 ところが、昭和18年の気象庁は、「敵軍に知れる」という事で、台風情報を発表しなかったといわれる。日本付近の気象情報が、「敵軍に洩れる」という事らしい。日本付近の気象情報が。日本より科学が進んでいたと思われる米国に分らないはずは無いと思うのだか、漁師は漁船を、この時に限って安全な港に回送してなかった。他の漁船も同じだった。

 そして、台風襲来の当日、向こう岸に係留している船を回送しようとしたが船もろともに流され死亡した。
 この台風が近づいていることを公開しなかったかどうか
真偽は定かでないが。
2011/07/20(Wed) 13:59:16 [ No.497 ]

◆ 65年経った-2 投稿者:kumao  引用する 
家付きでんでん  パソコンを覚えて、最近になって「本渓湖」を引いてみた。そこには「1942年4月26日14時5分本渓湖炭坑が爆発、炭坑夫の34%の1549名が死亡。現在に至るまで最も多く犠牲者を出した炭鉱事故となっている。」驚いた。私達が自分達が働いた炭坑で3年前に、このような大事故が発生している誰も話さなかった。私のように
終戦3ヶ月まえに入社した者が知らないのは当たり前だが他の人は知っていて口をつぐんで言わなかったのだろうか?誰もしゃべらなかった。
2011/07/18(Mon) 05:52:37 [ No.496 ]

◆ 65年経った 投稿者:kumao  引用する 
家付きでんでん 私は、日本が太平洋戦争に負けて、旧満州から引揚げてきてから65年経った。7月はっきり覚えているが、日は覚えていない。1945年5月下旬に満州製鉄(株)本渓湖支社に勤務し、2回給料を貰ったら終戦になった。
ソ連軍は1週間後には、本渓湖に現れた。製鉄所の経営は止まり、私達は失業した。その後、ソ連軍が製鉄所の重要設備を撤去しソ連国内持ち去る事になり、私達日本人の大多数は、ソ連軍の赤い軍票を貰って、その重要設備の撤去作業に従事した。その仕事も10月で終わり、今度は、本渓湖炭坑の採炭夫の仕事に、また仕事を失った日本人の大多数が応募し、私も採炭夫になった。
 その頃、蒋介石の国府軍と共産党との内戦が始まり、国府軍が優勢に、共産軍を北の方に追い詰めていた。大砲の音がだんだん近くなり、機関銃の音も聞えるようになっていた。
 私達は5人ぐらいの人達で編成した日本人だけのグループで仕事した。責任者は、北満州の炭坑で仕事していて、戦争が始まってソ連軍に追われてここに逃げて来た人である。採炭経験者は、この一人のグループであった。この経験者は、炭坑では「先山」と呼んだ。
 或る日、皆で仕事を終えて、人車で上がってると、事務所の方が何か騒がしい。中国語の分る人が「軍隊が、人を徴発に来ているようだ」との話から、徴発されたら大変だと、衆議一決、坑内に戻って、竪坑から出ようということになった。この竪坑は、東洋一の竪坑として、地理の教科書に載っていたので記憶していた。
 坑内に降りて、竪坑探しに歩きだした。誰も竪坑に行く経路を知っているわけではない。線路が錆びているから、近年使われていないだろうと引き返したり、先山の責任者が「頭が痛くなったら、ガスが発生しているかも知れないから早く申し出るようにと言われて、段々心細くなってくる。他のグループの誰一人とも会わないの変だと思った。俺もこの暗い炭坑の中で人生をおわるかなと心細くなった。何時間ぐらい歩いただろう。やっと竪坑の下にたどり着いた。鉄製の大きなお椀を鉄製の棒で吊り下げたような石炭運搬用に乗ってやっと地上に出た。
2011/07/18(Mon) 05:23:25 [ No.495 ]

Page: | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | |

投稿者 No. 削除キー

- YY-BOARD - icon:MakiMaki
- Antispam Version -